校長通信
ゆくて遥かに
校長通信

2022年5月19日

第203号 鯉のぼりについて、あれこれ

 校長通信では、これまでもしばしば登場した「鯉のぼり」(塩野先生による第165号、今井先生による第57号)に関してです。今年も5月9日の昼休みに応管による「鯉幟集会」がとり行われ、風薫る5月の青空に輝きながら、応管お手製の「裕之一号」が大きくはためきました。

 当日はあまりにも気持ちの良い昼休みだったので、水野教頭先生と一緒に屋上に上がり、集会の様子を眺めていました。以下、私と教頭先生の会話です。

水野:「初めて見たんですが、大きい鯉のぼりを自分たちで作るんですね。すごいなあ。校長先生の名前が書いてあるんですね。」

石川:「平成20年代の鯉のぼりの校長の名前は苗字だったような記憶があるんだけど…。いつだったかな、強い風が吹いていて、授業中に竿が折れてしまったことがあって、授業が終わると応管の諸君が一目散に走っていったこともあったような気がする。」

水野:「自分が在学していた平成元年頃は、鯉のぼりをあげていたという記憶がまったくないのですが…。」

石川:「それは、昭和50年代前半だった自分も全く同じなんだけど…。それにしても、新制高校第2代校長の岡田甫先生の頃から始まったことが、脈々と伝えられているというのは、やっぱりすごいよね。」

 という会話をしていていたところ、応管より鯉のぼりについての説明があり、昭和37年度から7年間中断していたが、その間を除き毎年作られているとのこと。自分たちの記憶の曖昧さに絶句していた校長・教頭でした。2人とも、それぞれ音楽部と地学会で、好きなことに夢中になっていた時期でもあるので、その他のことがあまり見えていない、狭量な高校生だったのでしょう。

鯉幟集会の様子
みんな笑顔でした。

 さて、創立100周年記念誌「深志百年」によると、深志の鯉のぼりの起源は、昭和26年5月、第2代岡田校長が生徒との雑談の中でのつぶやいた話から、その生徒達が制作したものと記載されています。初期の鯉のぼりは有志により和紙で作られていたらしいのですが、その後アカシア会が制作を引き継ぎ、岡田校長の退任(昭和37年)まで継続されたとのことです。これを昭和44年に布製の鯉のぼりとして復活させたのが応管で、それ以来毎年応管が制作し、今年度で53年目となるわけです。

「深志百年」掲載の鯉のぼり
{昭和37年以前の様子}
生徒はバトミントン部の練習らしい

 ところで、「鯉のぼり」に託された願いとは何だったのでしょうか。端午の節句の「こいのぼり」についてよく聞くのが、「子供の健やかな成長と立身出世を願う」思いです。中国には、「黄河上流のとどろき落ちる滝(竜門)をさかのぼる鯉は竜になる」という「登竜門伝説」があります。岡田校長はこれを引用し「竜門三段の滝を遡上する鯉魚」こそ、深志の教員・生徒の姿であるべきだと考えていたとのことで、このことは、昭和26年に旧制松本中学時代の正門が生徒通用門に移設された際、この門の名を「登竜門」と岡田校長が名付けたことからもわかります。ただ、「登竜門」というと、「立身出世」を意味するように思われますが、岡田校長は後年この点について、「直面する困難のたびごとに、これを乗り越えるべき障壁であると理解し、起因となった失敗こそ自らの向上の起点であると認知し、その後踏破すべき過程を一歩一歩遡っていこう」との思いであったことを説明しています。つまり、単なる「立身出世」ではなく、「うまくいかないことが発生し、壁を感じたときこそ、直面する困難に向けて、悩み考え、少しずつでいいから乗り越えていこう」という深志生の生き方に対する願いを、岡田校長は鯉のぼりに託したのだと言えるでしょう。このことは、私が本校に入学した年、古典の授業中に藤岡筑邨先生から教わったことを、これを書いていてふと思い出しました。誰かの入学式の式辞にも類似したフレーズがありましたが、1年生の皆さんは覚えて……。

 とんぼ祭、合唱コンクール、クラスマッチ、研修旅行、総体、夏の大会、遠足、定演…、コロナという大きな壁の前でみんなが立ちすくんでいますが、生徒の皆さんも先生方も、あきらめることなく、雄大に泳ぐ鯉のぼりのように、ともに乗り越える努力をしてまいりましょう。

 余談ですが、少しだけ取材をしました。62回(平成22卒)勝家康太郎団長(現某高校勤務)の話。

「鯉のぼりは5月の連休に合宿して作っていたのを覚えています。応管は上下関係が厳しかったのが切ないこともあったけど、夜遅くまで鯉のぼりを作っていると、先輩とも親しくなってきました。しりとりをしているとタメ口になったりして、仲間の関係がほぐれて、楽しいひと時だったのを覚えています。」

    33回(昭和56卒)熊谷賢一団長(現某小学校勤務)の話

「鯉のぼりづくりと、歌練の練習のために合宿をしました。鯉のぼりができると、副団長が校長を連れてきて、目玉を入れてもらうんです。その時、校長からご祝儀をもらって、応管で飲み食いしたのが思い出です。鯉のぼりをあげる時は、放課後応管だけでひっそりやったから、石川は覚えていないんじゃないか?なんせ、当時は表に出ないことが格好良かった時代だからね。今は自らを表現することが大切な時代になりましたが。」

 いつもは、きりっとしている応管の皆さんですが、思い出として出てくるのは、和気あいあいとした仲間とのひと時のようです。今年の鯉幟集会での応管の皆さんと参加した皆さんも笑顔で楽しそうで、暖かな5月の風が心の中にも吹き込んだような気がしました。

現在の登竜門 交通安全のため車は原則進入禁止です
出張に出かけようとして見上げると、
鯉のぼりに見送られているような気がした5月12日の正午ごろ

(前号の郷友会クイズの答え)

清流会は塩尻西部中と木曽方面の出身者による郷友会でした。